ボクが椎名林檎を始めて聞いたのは骨折して入院した時

こんばんは、さいたま市桜区で小さな縫製工房ファッションいずみのミズイデ(@fashionizumi)です。

洋服買ってますか?欲しい服は無いけど欲しいラケットはあります。No.545

  ボクが椎名林檎を始めて聞いたのは骨折して入院した時

1999年の夏だったと思います。

ボクが35歳の時、東京都中野区にある哲学堂野球場で草野球していました。

日曜日の夜でした。そう、ナイター設備が整っている立派な球場でした。

前日は二友会という縫製工場の経営者の集まりがあり、決まって懇親会と言う名の飲み会で飲み過ぎてその日は二日酔いが醒めていなかった。

なんか体がだる重状態でした。

それでも草野球が好きだったのと人数がいつもギリだったからね、でもフラフラでした。

そんな体で守備に着いた時です。

ちなみにライパチ君でした。(守備位置がライトで打順が8番と言う意味)

まあ、しらふでも人数合わせ的に呼ばれてました。

そんな奴なんですけど、なんか打球とかにはやたらと反応してしまうんですよね。

その時は、確かセカンドゴロが抜けてそのゴロを取りに走り出した時です。

「ポキッ!」って乾いた音がしたと思ったらボクはその場に転んでたんです。

それで、周りの人が何もない所で一人で転んだものだから何やってんだよ!って笑ってたっけ(笑)

そんな感じでした。

早く起きなくちゃって、思って立ち上がろうとしても足が言うこと聞かなくて・・・

あれっ?あれっ?ってなり、なんかヤバい感じで救急車呼ばれて、

救急隊員が診てくれて一言。

「あ、折れてますね。」って。

それを聞いて、うそー!やっちまったー!だった。

それから、救急車は都内から出た埼玉の病院までは搬送できませんって言われて、友達にさいたま市の家の近くの病院まで車で運んでもらって助かりました。

本当にありがとうございました。

 左脚大腿骨骨折の大けがでした

即入院して診断の結果が左脚大腿骨骨折で2ヶ月の入院、全治1年の大けが。

入院して1ヶ月はベッドの上から動けなかった。

入院したのは、西部病院という総合病院で家から自転車で5分10分の距離なので奥さんに毎日来てもらってた。

息子もまだ5歳の頃でした。

その頃スタッフが4人くらいいてお見舞いに来てくれたのがうれしかった。

困ったのが、ボクが担当していた裁断。

全く身動きが取れなかったので、松ノ木親方と先輩2人にお願いしたら裁断をしに来てくれたので本当に助かりました。

心から感謝でした。

それで入院した部屋が4人部屋だったんですね。

その4人ともが、皆骨折で入院していてお互いの気持ちがよく分かって長い入院生活で友達に。

その中でかなり重症で同じ左脚大腿骨折していた永井君が親身なって世話してくれたんですね。

手術後に麻酔が切れてきて痛くて眠れなくって夜中に唸ってたら声掛けてくれたり。

車いすの乗り方を教えてくれたり、タバコはここで吸うといいですよとか、たまには美味いモノ食いたくなりませんかとか、

ビール飲みたいっすねとか。

まあ、色々と助かった訳です。

そんな永井君が聴いてたCD椎名林檎の「無罪モラトリアム」を聞かせてもらった時一発で好きになったんです。

いやー全く知らなかったので永井君に会わなかったら一生聞くことは無かったかな?そんなことは無いけど、ボクにとって運命の出会いだったかなって思ってます。

そして今夜もこのブログを書きながら退院した翌年に発売されたセカンドアルバム「勝訴ストリップ」を聴いてます。

 

その時22才だった人が今年は40才になるんですね。

当たり前ですけど、その時それくらいだった永井君も40過ぎかー!

ボクも53になった、でも仕事の内容はその時とあんまり変わっていないように思う。

ヤバいなー。いい加減変わらなくちゃ、ヤバいよな。

 

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水出 俊哉
1964(昭和39)年7月生まれなので夏と卓球が大好きです。
1991年2月、26歳の時に有限会社ファッションいずみを創業。高級婦人服(プレタポルテ)を作り続けて早28年目を迎えました。
主にインディーズデザイナーブランドを手掛けています。
数多くのドメスティックブランドのショーサンプル・展示会サンプルから本生産までお手伝いさせていただいています。
縫製職人が手掛ける洋服のリフォームも好評です。
あと、個人様の縫った洋服1着からでもボタンホールを承っておりますお気軽にお問合せください。

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