縫製工場として生き残る為にしてきたこと。(前編)

こんばんは、三連休の初日と二日目の今日も仕事していたミズイデ(@fashionizumi)です。

明日は休みます、三連休最終日を楽しみたいと思います。No.686

 縫製工場として生き残る為にしてきたこと。(前編)

 

ボクは頭がよくなくて普通の高校行って卒業したら就職するしかなかったのですが普通の会社に就職するっていうイメージが無かったように記憶しています。

じゃどうしようか考えました。

その時に一番印象に残っているのは縫製の職人だった父の言葉「手に職をつければ食いっぱぐれはしない。」でした。

だから身近にあった父の仕事を目指すことにして父に言うと、「他人の釜の飯を食べた方がいい」そう言って、父の友人の知り合いの社長さんの縫製工場を紹介してもらい面接だけで内定もらい卒業式の次の日から働き始めました。

あ、父はゆくゆくは家に帰ってくると思っていたみたいですがボクはその気は無くて自分で独立するつもりだったのです。

なぜなら自分で自由にやりたかったから。

縫製工場の仕事は今も昔もそれほど変わらず勤めていたらいつになっても自分の家を持てないと感じてた。

だって社会保険はおろか雇用保険すら未加入でしたから。苦笑。

だから、仕事を教えてもらって独立するのが一般的でした。勤めていた社長もそうでしたから。

 独立した頃はよかった。

独立したのは1991年バブル景気が終わってまだ余韻が残ってた頃でした。

だから、まだまだ仕事があってがんばれば稼げた時代なのでよかった。

でも、数年後に海外生産への移行が増え始めてきて今までと同じことをしてたら海外の縫製工場に追いつかれてゆくゆくは仕事が無くなると危機感を抱きより高い技術を教えてもらいました。

話すと長くなるので割愛しますが、それも2008年のリーマンショックの時に行き詰まりをボクは感じました。

高い服が売れなくなってきたから。プレタの服を作っていたメーカーの生産担当者の言葉「高い値段が通り難くなってきた。」そう言ってたのを今でも覚えています。その後そのメーカーは倒産しました。

 もう違うお客様を探そうと思った

今までは大手、準大手、その下のアパレルメーカーの仕事をもらっていたら安泰でした。少しは閑散期があったけどね。

でも、大手は海外生産が当たり前だし国内生産してるブランドもあったけれど大きい工場しか対応できないもん。

詳しく書くと商社を通してとか属工(付属福資材は工場持ち)取引が前提とか、CAD/CAMは必須とか無理ですもん。

一回、振り屋さんが大手さんの口座を持っていてその人経由で仕事をさせてもらった時がありました。

最初はよかったんですね、でも最後は酷い事されたのを今でも忘れられません。もう二度とやりたくないと思ったもん。

だから言葉が通じる小さなメーカーさんがいいと思ったんだ。

でも、それもいろいろありました。

続く。

 

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水出 俊哉
1964(昭和39)年7月生まれなので夏と卓球が大好きです。
1991年2月、26歳の時に有限会社ファッションいずみを創業。高級婦人服(プレタポルテ)を作り続けて早28年目を迎えました。
主にインディーズデザイナーブランドを手掛けています。
数多くのドメスティックブランドのショーサンプル・展示会サンプルから本生産までお手伝いさせていただいています。
縫製職人が手掛ける洋服のリフォームも好評です。
あと、個人様の縫った洋服1着からでもボタンホールを承っておりますお気軽にお問合せください。

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