縫製の仕事は続けたからといって決して良い事があるわけではない、だけど続けてみないとその良さは分からない

こんばんは、ヤクルトスワローズの連夜のサヨナラ勝ちに若干興奮気味のミズイデ(@fashionizumi)です。

夏の高校野球埼玉県代表は花咲徳栄高校が優勝しました、8月7日から始まる甲子園大会で悲願の全国制覇を目指して是非成し遂げてもらいたいです。

子供の頃は野球少年だったので野球も好き。

さあ、今日は書きますよ。No.449

 他の仕事のことは分からないけど縫製の仕事は続けてみないとその良さは分からない

ボクが野球と出会ったのは、多分小学校へ上がる前(入学する前)だったと思う。

場所は川口市前川に住んでいた時、近所の空き地で小学生が野球をしているのを見てとっても楽しそうだったのを幼心の記憶に残ってる。

引っ込み思案な性格だったので、見ているだけだったけどね。

それを見ていた父がキャッチボールをしてくれた時はうれしかったなー。

小学校入学の時に引越して、川口市立芝西小学校へ入学しました。

たぶん、1年生の頃から野球野球野球野球野球の毎日だったと思う。

キャッチボールする相手がいなくても公民館の壁に向かって投げてた。

グローブとバットを買ってもらった時は小躍りするくらいうれしかった。野球帽はみんな巨人の帽子。だってそれしかなかったもん。

テレビは巨人戦しかやらないから巨人の選手は詳しかった。父の影響ですけどね。

堀内が投げてキャッチャーが森、ファースト王・サード長嶋・セカンド黒江・ショート土井・レフト柴田・センター高田・ライト末次そんな時代でした。あ、監督は川上哲治ね。

ラジオでもナイター中継は欠かさず聞いてた、父の影響です。

それくらいしか娯楽がなかったのかもしれません。

毎日野球やってたから、6年生の頃にはそこそこにはなってたと自分では思ってます。

昔は、今みたいに少年団とか無かったので、独学でした。

でも、野球の本はボロボロになるまで読んだ記憶があります。

 昭和です

時代が昭和でした。

父は中卒です、戦前(昭和10年)生れ群馬の山奥の貧しい家庭で育ち15才で丁稚奉公するために上京したそうです。

丁稚奉公したのは紳士服の仕立て職人さんの親方の元だったと父から聞きました。(耳たこです)

丁稚奉公とは、住み込みで働き親方と寝食を共にして仕事を見ながら覚え寝るところと食べるものには困らないけど給料制ではなく、小遣い銭程度しかもらえない徒弟制度です。

よく父が言っていたのは、若いから腹が減って腹が減って仕方がなかったって。

食糧難だったのか、親方は白い飯食べてて自分たちは饐えた飯を出されたって・・・

それは一生忘れることはできないんだろうな。食い物の恨みは忘れることはできませんよねー!

そんな父は、ボクが物心ついてた頃には独立してました。

小学生低学年の頃は紳士服をやってましたが、小学6年生になった頃婦人服に転向するために婦人服の縫製工場に通って教えてもらってました。

たぶん、給料制で1年くらい通ってました。

その時に父は父なりに生きる道を模索して辿り着いた答えが紳士服から婦人服への転向だと思ったのだと思います。

時代の流れで、婦人服が売れ始めた頃じゃないかな。

クソ真面目な父は死ぬほど働いてた記憶があります。

もう、一心不乱に洋服を縫うそんな感じ。

クオリティーはそこそこでOK、それでも売れた時代でした。

とにかく中卒でも腕に技術があって一生懸命寝る間も惜しんで働けばその分が返ってきたんでしょうね。

5年後、念願の新築一戸建てをめでたく購入することができました。ボクが18の時だから昭和57年の夏でした。

 そんなジャパニーズドリームを夢見て

高校3年の時、進路指導の三者面談に父がきてくれました。

3年の時はもうバイト尽くしで勉強なんてしなかったから、物理と数学で赤点取ったのを覚えてます。

だって、全然何言ってるのか分からなかったもん。

もう頭悪いって自覚してたから、手に職をつけようと縫製の仕事を目指します。

そんな宣言を何の裏付けも無く言いました。

父が一番面喰ってました。(笑)

ただ単に後を継ぐとかという意味じゃなくて身近に見て来た職業で、父が新築一戸建てを買ったのは尊敬してたから。

 他人の釜の飯を食べなさい

もう一つ父に感謝しているのは、数少ない父の同業者の友人の友人で西新宿の縫製工場の社長を紹介してもらったこと。

父は職人肌で一匹狼的な性格で社交的でもなく、気に入らなければ直ぐへそを曲げてしまうので交友関係が広いとは言えませんでした。

現に父の実弟(ボクはタカちゃんと読んでた)は、父を頼って中学卒業後同じ紳士服の道に進み一時は二人で一緒に独立してやってたけどどうにも父の上からの物言いが我慢できなくて仲違いしてました。(苦笑)

話を戻します、父の友人の外園さんがいなかったらボクは今この仕事をしていなかったかも知れません。

ボクが修行できる会社を引き合わせてくれた外園さんに感謝しています。

たぶん、父の下にいたら今は無かったと断言できます。

それは、あまりに世界が狭かったから。

西新宿の縫製工場で働いたおかげで色々な人に出会うことができました。

その出会いがなかったらと思うと恐ろしくなります。

まあ、とどのつまりが親方と出会っていなかったから。

 親方とは同じ境遇だった

親方の親父さんも縫製工場を経営していて、自分のところ(埼玉県志木市)じゃなくて高校卒業して(株)ことぶき(東京都東村山市)というその当時JUKIのシンクロシステムを導入1号のデカい縫製工場で修業したのち、独立。

4年の約束だったとか、でもあと1年やらして下さいとことぶきの社長にお願いして5年修業の後、満を持して独立。

最初は清瀬市のぼろい平屋建てのアパートで始めたんだそうです。

たぶん、出会ったのは親方が26歳でボクが23歳。もう30年も前っす。

 苦労の連続

親方は独立して2年後?縁あって今の松ノ木にあった縫製工場を居抜きで借りられることに。

まず、手を付けたのが必要な従業員を選び残すことだったとか。

若干24歳の若社長について来てくれる人数人で始めたとか。

それからずっと見て来ているつもりです。

それを見て来て感じることは、ボクの父みたいにただ我武者羅にやっているだけじゃダメな時代になったんだなってこと。

クソ真面目なだけじゃダメ。遊び心がなきゃダメ。

一生懸命って誰も、ほとんどの人が一生懸命働いてますよね。

一生懸命やっても結果がダメだったらダメだとボクは思います。

独り善がりじゃダメですよね。

今は今までのやり方が通用しなくなってきている時代だと思うのです。

でも、多くの縫製工場は今までのやり方を変えられなくて淘汰されて行ったのかなーなんて思ったりラジバンダリ。

 結局何に幸せを感じられるのか

ボクは親方にしょっちゅう泣き言を言ってました。

金が無いとか、仕事が無いとか、会社が上手く行きませんとかね。

その度に、金が無かったらあるようにすればいい。=働けってこと。

仕事が無いなら、仕事を頼まれるようにすればいい。=仕事イコールお金だ。

会社が上手く行かないのは何が原因なのか考えればいい。=その時自分以外にその原因を求めないこと。

自分がイライラして当たれば、イライラした態度で返ってきます。

人に教えているのにその通りにやってくれないと、言ったってその通りには人は動いてくれません。

人は思い通りにはいかないもんなんだって、何度も言われました。

だから自分が変わるより仕方がないでしょって♪

まだまだだけど、そんなことを理解できる年になった2017夏。

人の気持ちを慮れる人を目指したいと思います。

それが出来るようになれば仕事も上手く行くはず。

今日は以上です。

オヤスミナサイ。

 

また立ち上がろう♪

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水出 俊哉
1964(昭和39)年7月生まれなので夏と卓球が大好きです。
1991年2月、26歳の時に有限会社ファッションいずみを創業。高級婦人服(プレタポルテ)を作り続けて早28年目を迎えました。
主にインディーズデザイナーブランドを手掛けています。
数多くのドメスティックブランドのショーサンプル・展示会サンプルから本生産までお手伝いさせていただいています。
縫製職人が手掛ける洋服のリフォームも好評です。
あと、個人様の縫った洋服1着からでもボタンホールを承っておりますお気軽にお問合せください。

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