波乱万丈じゃない平凡なボクの縫製職人人生。

ユニオンスペシャル|Lewis|掬い縫いミシン
ユニオンスペシャル|Lewis|掬い縫いミシン

ユニオンスペシャル|Lewis|掬い縫いミシン

掬い縫いミシンと言えばこれ、ユニオンスペシャル社製ルイスはど定番です。

今日工場に来られたアパレルメーカーの方にお見せしました。年代ものですがバリバリの現役です。

こんにちは、縫製職人見習い社長ミズイデ(@fashionizumi)です。フォローよろしくです。

洋服の縫製とお直し、それからボタンホールの依頼が増えているのはやっぱり発信して知ってくれた人が増えたから。

今日もブログ書きまーす。

波乱万丈じゃない平々凡々な縫製職人人生

18で東京は西新宿にあった縫製工場で修業を始めてボクの縫製職人への道がスタートした。

しかし、今でも自分が情けないと思ってしまう程情けない1年目でした。

実家を離れ1人暮らしを始めて少しホームシックだったのかな、まー情けなかった。

会社へ行きたくない病にかかってしまいました。徒歩3分のところに下宿してたのにです。

そんな情けなくてだらしのない奴をよく使ってくれたと今でも感謝しています。

後から聞いたら、あの時は何度実家へ帰そうと思ったか知れないと言われてホント恥ずかしかったのを覚えています。

で、なんでボクを雇ってくれたのかも聞きました。

何にもできなくてだらしのない奴を雇ってくれたのが不思議だったから。

その答えは、「水出君が給料は別にいくらでも構わないと言ってくれたことと、3畳一間の下宿でも嫌がらなかったからだ」

そんな風に言ってもらいました。何もできないんだから生活できる部屋とご飯が食べられて銭湯に行ければOKでした。

しかし、それにしても最初のお給料をいただくまでの間がキツカッタ。

引越しは、とりあえず家族4人でカローラバンに乗って埼玉県から布団と着るものやなんやかんやと最小限の生活必需品、それと愛用のカセットデッキを積んで運んでもらった。

生活費は自分でバイトして貯めた金だけだったからだ。ま、初任給をもらえてほっと一安心したのを思い出す。(苦笑)

初めはずっとアイロン掛けと芯貼り

もう、アイロン掛けはハンパないです。ずっと立ちっぱなし、しかも腰入れての作業でした。

芯貼りの作業も立ち仕事、足腰は強い方でしたが丸一日はキツカッタ。

しかも1日が長かったー(-_-;)

アイロンがデキるようになったらロックミシンをひたすら踏みました。

もう、ロックミシン大好きです。

サージングと勝負しても勝つ自信あります。(ウソです)

初めはやっぱりロックミシンで生地を切ったことありました。

全然遅かったです。でも踏み続けました。

そしたら知らず知らずにフルスロットルで踏めるようになりました、全開バリバリです。

ロックを覚えてやっと本縫いミシンに乗らせてもらった。

その時のうれしかった気持ちは今でも忘れていません。

だって、そこまで来るのに長かったー!マジで長かったー!

本縫いミシンは裏地から

スカートの裏地を縫うことから覚えました。

縫ってロックしてアイロンして裾上げしてファスナー付けて出来上がり。

その裏地を縫わせてもらえるまで2年くらい掛かってます。

ボクが覚えるの遅かったからなのか、ミシンの空きがなかったからなのか?

まあ、長かったです。

縫製職人が大勢いた時代です。

裏地を縫えててやっと次は表地縫い、しかもまだスカートでした。

スカートは後中心接いで脇入れて、ダーツとってロック掛けてファスナー付けて裏地を付けてベルトを縫いつけて完成。

もうファスナー付けは鬼門でした

もう、30年前からコンシールファスナーが流行っててコンシールファスナー付けが上手くデキなくて何度も練習したなー。普通のエフロンファスナーも苦労したけど、コンシールファスナー付けは嫌いでした。

そして、その後仕上げのベルト付けが更に難関だったのでしたー、ここまで来るのに多分丸2年は掛かってます。上着はこれから覚えるって頃、若かったなー。

水出俊哉20才の頃のことでした。つづく。

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