縫製の仕事を覚えようと入社した2年目まではとてもつまらなかった

アイロン掛け

こんにちは、週末には大好きな卓球して大好きな丸亀製麺のうどんを食べ、日曜日の夜ごはんは大好きな豚肉のしゃぶしゃぶで締めて楽しい時間を過ごすことができて感謝しているミズイデ(@fashionizumi)です。No.528

1月15日月曜日、今日はウィキペディアの日と小正月ですが、小正月ってさいたま市ではあまりメジャーではないようです。

父親の実家の群馬県では子供のころ寒い中でどんどん焼きとかして火にあたってその中に芋を入れて食べた記憶があります。
土地によって風習の違いを感じました。

それから今日、お年玉付き年賀状の当選番号発表されましたよね。

30枚くらいしか来なかった年賀状を当たっていて欲しいと願いながら照らし合せて見ていたら3等の切手シートが1枚当たった時はやっぱりうれしかった。押山ありがとー。

さて、今日のブログは。

縫製の仕事を覚えようと入社した2年目まではとてもつまらない日々でした

ボクが縫製の道に進もうと決めて東京都新宿区西新宿5丁目にあった縫製工場で働き始めたのが1983年の3月でした。

高校を卒業してすぐ、18歳の若者は不安でいっぱいでした。

今みたいに携帯も無くて、唯一の連絡手段は電話か手紙。

3畳一間で一人暮らしを始めて金もなく電話を引くこともできず人見知りの性格だったしボク以外はみんな女性の職場で友達もいなく親元を離れてでしたから、初めて家族や友達の有り難さを感じました。

頭が良い方ではありませんでしたが、それなりの偏差値が低い大学などに進学することもできたのでしょうけれど多分その術を知らなかったのだと思います。

親父は中卒で15歳から働いてきたので高校まで卒業させてもらって感謝です。

自分の息子も高校まで行かせた後は、自分がそこまでしかしてもらっていないからその先が分かりませんでした。

でも、なんとか専門学校へ行かせられてよかった。

話を戻します。

一人暮らしを始めて、自炊して洗濯も自分でやり銭湯に通う生活をしてました。

仕事の定時が8:50~18:00でしたが、勤務初日にやっと終わったーさあ帰っていいのかな?早く帰りたいな。そう思って社長に聞いたら「もう少しやって行こう。」と言われてがっかりしたのを覚えています。(笑)

別にその後の予定などなかったけど、緊張から早く解放されたかったんだと思います。

そして、その生活に慣れるまで意外と時間が掛かった軟な男です。(苦笑)

1年目はアイロンを覚えました

入ってすぐの仕事は、接着芯を機械で貼る仕事とアイロン作業でした。

一型あたりの枚数が100枚とか普通に有ったからもう黙々とひたすらアイロンです。

アイロンマシーンのように、アイロンアイロンしてまたアイロン。

その日々が1年くらい、間にロックミシンとかもありましたけど、ほとんどアイロンした記憶しかありません。

2年目になって、ミシンに乗せてもらいました。

でも、裏地とか簡単なパーツ縫いばかりで何をやっているのか今一つ分からなかった。

時代はバブル景気に向かっていた頃

職場と下宿先は徒歩3分の距離でしたから、会社と部屋との行き来の毎日。

18歳の若者はやっぱりつまらなかった。

話す人が欲しかった。

社長とか職場の人以外が良かった。

時代背景を説明すると、高校の時バイトしていた時給が450円でした。

3畳一間の家賃が9000円、給料は日曜祝祭日と第3土曜日だけ休みで100,000円もらってませんでした。

高校の時1ヶ月フルに働いてもらった額が70,000円程度だったから給料に関しては別に不満などなかった。最初はね。

1年掛かってようやく仕事にも慣れ

1年目のボクは今でいう黒歴史です。消し去りたい。

まあ、なんとか慣れたボクはどうしても車の運転免許が欲しかった。

でも、教習所に通う金が無い。

なので、仕事が終わった後バイトしました。今でいうダブルワークです。

金が欲しかったら働くだけです。

結果、そのバイト先で色々な友達ができてよかった。

高校時代バイトしていた、すかいらーく。

その時、フロアーもキッチンも両方できたので結構自信があって近くにあったすかいらーくへ面接に行くと即採用してもらっった。

バイトしていた人は地方から大学進学で出てきてアパートで一人暮らししている人が多かった。

そんな人たちと直ぐに打ち溶けて飲んだりカラオケ行ったりパチンコしたり海に行ったりスキーへ行ったり楽しかった事は忘れられません。

たぶん、そんな楽しいことがあったから縫製の仕事も続けてこれたのだと思います。

結局、仕事だけの生活なんてツマラナイですよね。

あれから35年も経っちゃって、オッサンになり若かった頃を振り返って思ったことは今も昔も若い時は同じように楽しく生きたいはずなんです。

それを忘れてしまってました。

仕事は厳しいものって、嫌でした。クソ真面目にやってたことが不思議。

一緒に働いてた先輩の出貝さん(女性)と今の奥さんと3人で飲みに行く仲だったんだけど、

いつだっけかなー?お盆休み明けだったかな、急に会社に来なくなっていきなり辞めちゃったんです。

その後、飲みに行って「ナンデ急に辞めたの?」って聞いたら。

「だって、同じことの繰り返しって性に合わないんだよね。サンプル屋で働くわ」でした。

確かになー、サンプル屋の方が給料いいもんね。

その後奥さんもそのサンプル屋さんで働き始めたんですね。社員旅行がハワイだったのがうらやましかったー。

そんなことも思い出しました。

それから、ちょうど働き始めて3年目頃からバブル景気が始まりました。

バイト先で知り合った大学生が就職して行きました。ある人は証券会社へ就職して、その人がいる大阪の千里の会社の寮まで押しかけたなー。

青春18きっぷで。

もうその人の給料とか聞いたらうらやましかった。

働いたらそれなりに他の仕事と同等くらいは欲しくなります。そんなもんです。

わざわざ、自分から貧乏くじ引く人なんていないとボクは思った。

だって、自分がその立場だったら嫌だもん。

独立した頃は、生活は楽ではなかったけど夢がありました。

頑張って働いて良いミシンを買うぞ、延反機を買うぞ、芯貼り機も買うぞ、仕事場もちゃんとした場所を確保するぞ。

いろんな希望があったなー。それは、便利な機械を使い生産性を上げて利益を出したかったからです。

商売しているのだから当たり前のこと、利益が出なかったら売上が上がらなかったら潰れてしまいますから。

今は時代が変わっているのを感じます。

だから、もう一度仕事を楽しむっていう意味を考え直したいと思います。

もちろん、金額だけじゃないってこともあります。

最終的には、この仕事に夢があるのかって話しだと思うんです。

夢のある仕事に変えていくために何ができるか考えてできることから行動して行こうと思います。

小さいことから始めます。

今日は以上です。

ぼくの情熱はいまや 流したはずの涙より 冷たくなってしまった

どんな人よりもうまく 自分のことを偽れる 力を持ってしまった

大事な言葉を 何度も言おうとして すいこむ息は ムネの途中でつかえた

どんな言葉で 君に伝えればいい 吐き出す声は いつも途中で途切れた

知らない間にぼくらは 真夏の午後を通りすぎ 闇を背負ってしまった

そのうす明かりのなかで 手さぐりだけで なにもかも うまくやろうとしてきた

君の願いと ぼくのウソをあわせて 6月の夜 永遠をちかうキスをしよう

そして夜空に 黄金の月をえがこう

ぼくにできるだけの 光をあつめて 光をあつめて…

ぼくの未来に 光などなくても 誰かがぼくのことを どこかでわらっていても

君のあしたが みにくくゆがんでも ぼくらが二度と 純粋を手に入れられなくても

夜空に光る 黄金の月などなくても ♪

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