水とアイロン、私とミシン、親父と

さいたま市の最高気温33℃でした。もう真夏です、暑いです、暑い夏が大好きなミズイデとしちゃん(@fashionizumi)です。

夏と言えば、祭り!山・川・海そしてビール!!一年でビールが最高に美味い季節だから夏が好き。

さて、今日のブログは。

水とアイロン、俺とミシン、親父と油。

ボクの仕事は主に高級婦人服縫製です。

縫製の仕事で一番大事なのはミシンよりアイロンだと思っています。

それは、ミシンが壊れても工業用ミシンなら頑丈にできているので大きな修理までには至らないです。

もし、最悪重症だった場合は替えが利きます、一時しのぎ的に家庭用ミシンでもOK。

だけど、アイロンボイラーが故障したらヤバいです、マジヤバいです、仕事デキナイです。

ボイラーが故障する原因

ボイラーは水を炊いて蒸気を作ります、燃料は電気・ガス・灯油・重油などがあり、うちのは小型電気ボイラーです(5kg)

高い大型のボイラーは100万円以上するらしいけど、うちのは中古の3個1だから10万しなかった配管工事とセットで24万だったなぁ、安っ!(2004年導入)

1982年生まれだから現在34歳、うちに来てからもう12年間休まず働いてくれて故障したこと一度もありません。

故障しなかったのは、伝説のボイラーマン故石田さんの教えを守ってきたから。

その教えとは、「水は必ず軟水を使え!出来れば軟水器をつけた方が良いが、最低でも家庭用の浄水器の水を使ってください、ゼッタイに水道水をそのまま使うなんてことはしないでください。」それだけです。

なぜ、水道水がダメなのか?それは塩素が入っていてそれがスケール(水垢)となって詰まってしまうからなのです。

5kgのボイラーで4台のアイロンをフル稼働していると使う水の量は1日20リットルくらい使うので家庭用浄水器だと直ぐにフィルターがダメになってしまい、今は大きい浄水器できれいな水をボイラーさんに飲んでいただいております。

そう、家庭用のアイロンも水を使います。

是非、浄水器の水を使うことをお勧めします、故障の原因は水道水の塩素だから。

実はうちの父も縫製屋

うちの父は昭和10年(亥年)生まれでのイノシシのような性格、一言で言えば気が短い。

昔気質の縫製職人だった。

昭和50年~60年辺りが親父の絶好調だった、その後にバブル景気が起こったのですが乗り遅れてました。

なぜなら、バブル景気の頃はプレタポルテブームだったから。

プレタポルテとは高級既製婦人服のこと、サイズは寸法通りに仕上げるのが厳守です+-1㎝以内です。

細かいことが嫌いな親父はプレタを縫える性格でもなくチャレンジもしなかったな。一般婦人服はプレタ程厳しくなく許容範囲が広かった。

そして一番向いていなかったのは、元々紳士服上がりでその頃のアイロンの癖が抜けなくてアイロンが強すぎだって何度も言ったけど直らなかったです。

そして名機大阪アイロンの同じボイラー(3㎏)使ってたけど水道水をそのまま使っていたからでしょう壊れて捨ててた。

石田さんから買えばよかったのに、でも一匹狼的だったからあまり情報先が無かったのが残念。

今みたいなSNSとか無かった時代で、情報を持っている人が強かった。

バブルの頃は一般婦人服は大体行きわたってしまって、今では信じられないことに高い洋服が売れてた。

親父が40才から50才の頃が一番職人として脂がのってた時期で、我武者羅に仕事していたのを覚えています。

夜遅くまで仕事してたなぁ・・・感謝です。

しかし、その頃のボクは中学生から高校生へいわゆる反抗期からの思春期。かなり迷惑かけた(汗)

高校を卒業する時期が来て、学力的にも経済的にも進学は難しかった為就職する道を選んだ。

普段からあまり会話する時間も無かったが、

学校で三者面談の時、親父が来てくれてその時初めて縫製の仕事に就きたいと言った。

実家は継ぐ程の規模ではなかったのと、「他人の飯を食いなさい」と言われ親父の友人の友人が経営していた西新宿にあった縫製工場を紹介されて縁故入社。

社長が用意してくれた西新宿5丁目の3畳一間・台所トイレが共同、風呂なしで家賃9,000円の生活が始まり始まり。

給料も当時にしても安い方でした、10万円いかなかった。それでも何もできないボクを雇ってもらった恩は忘れません。

第三土曜日だけ休み、月5休で朝早くから夜9時ごろまで働いた、労災も社保も無く賞与も無いそんな時代。

そこで約8年間修業して、仕事がデキるようになったら昇給もしたし賞与もいただけるようになった。でも社保は無し。

会社の窓から西新宿の高層ビルが良く見えて、夜遅くまで灯りが点いているのを見てみんな頑張ってんな!スゲーなまだ帰らないの?お先です。って思ったのを思い出した。

今の都庁を作っていたころの話です。

親父の背中を見て育った

寡黙な親父で仕事一筋人間、趣味もなく敢えて言うなら盆栽くらいで日曜も無く働いてた。

何が面白いんだろう?そんなことを時々思った。本当に仕事だけで休むのは盆と正月くらい。

昔の人は良く働きました。海援隊の母に捧げるバラードの歌詞にあるように「人間働いて、働いて、働きぬいて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度だけでも思うたら、早よ死ね。それが人間ぞ。それが男ぞ。」そんな歌が聞こえてくるようです。

ボクはそこまで働いてないけど、親父の血筋か体だけは丈夫です。元気に働けることに感謝します。

しかし、会社を辞めて独立させてもらって実家に帰る選択肢はありませんでした。

なぜなら、親父とは水と油でケンカする訳じゃないんですがどうも意見が合わない。

それは、子供に対してだからか何時まで経っても上からものを言うのでダメなんです。ムリなんです。

そんなところも似ているので直さなくちゃね。

齢80過ぎても体だけはしっかりして健在な親父。

唯一好きなものが柿、我が家の柿が今年は豊作の予感、秋にはそれを手土産にたまには親子酒でも飲もうか。

実家は車で45分くらいなんですが近いと帰らないですね。

便りが無いのは元気な証拠です。

今日は父の日、うちの息子はそんなこと知りません。

これも血筋か。

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